夜の炎は水面に熱く

中編

ナイトは、サイハの従兄弟の中でも、サイハが一番好いている人物だった。
ナイト自身が思っているよりも真面目で、でも、結構柔軟な性格で。
サイハは昔から、ずっと親愛の情を抱いている。
けれど、でも、どうしてか、サイハはナイトと、血が繋がっていて、繋がっていない感じがしてしまう。
奇妙な感覚だと思う。けれど、本当にそうなのだ。
確かに血は繋がっているのに、昔から、ふとした拍子に、何処か別の人物に思える時がある。
……そう、ディーナを『妹』だと言った時もそうだった。
だから、多分、大丈夫だ、とサイハは思う。
信頼した騎士がサイハを殺そうとした時。
二人して野獣に襲われた時。
建物の崩壊現場に、誘い込まれた時も。
そんな状態のナイトがいた時は、気が付いたら全てどうにかなってしまっていたのだから。

 *

海の世界に行くのですね。では、案内してあげましょう。
俺がサイハと、この件に協力するといって聞かない、サイハ付きの騎士・ラディスと共に砂浜に出ると、顔なじみの古参の衛兵、アルマーノ=ジョルッジオさん(六十?歳)がいきなり現れ、そう告げたものだから、俺達は訝しみの視線を送るしかなかった。
「俺達はナナキさんの姉弟達に協力して貰うつもりだったのですけれど」
「それじゃあ間に合いませんよ」
ジョルッジオさんはにこりと笑う。
その容姿は歳にしては若い方だと思うし、亀の甲より年の功、色々人生経験もあるのだろう。
でも、だからといってどうして特殊な神の世界へと行けるのか。
しかもこの件に関係はないはずなのに、いきなり出てきてそれはない。
そう思って踵を返すと、
「なら、これで信じますか?」
老人の声とは思えないほど若々しく、麗しい声がして。
振り向くと、そこになんか神様っぽく神々しい、ものすごい美形がいた。漆黒の髪に黄金の瞳、真珠の肌と、精悍かつ麗しい顔つき。
でも、なんとなくそこに、ジョルッジオさんの面影がある。
「………え……」
「まあ早い話、私が『三界の命』の原因になった神なのですよ。
 海の神の一人、『門』のゲートアルファです。改めてよろしく」
神の一人って、んな無茶苦茶な。これまでの事に近接して関わっちゃあいないのに、どうしていきなり出てくるんだ。
……なんかもしかして、さらに事態が大変になったんじゃあなかろうか?

 *

「ああ、もうすぐですね。
 しかし奇妙な事だ。未だに私の『領域』が残っているとは」
まあ、さすがに小さくなって隅に追いやられているようですがねえ。
ジョルッジオさん、いや、ゲートアルファが軽く言う。
あの後、彼がどこかから出した『海神の世界への門』をくぐり、俺達はその後の、暗いのか明るいのか、歪んでいるのか歪んでいないのか、とにかくよく分からない空間を歩いている。
「……ジョルッジオさん」
サイハはやはりそう呼ばないと気が済まないのか、そうゲートアルファに呼びかける。
「つまり、貴方が……俺達の祖先なのですか」
「ええ、そうなりますかね。建国王たるレイハが、私たちの孫ですよ。
 まあ、血の繋がりは二百分の一あるかないかですけどね。
 それでもうちの息子の『三界の命』が受け継がれてるって言うんですから、凄いですよね。
 まあ、でも……レイハも死んでしまって、私たちはその血筋の者から遠ざかる事にしました。
 一応肉親ですから。先立たれる気持ちに耐えられやしない」
レイハの父は生きてますけど、今どこにいるのやら。三つの命も、一つになってしまいましたからね、あの子は。
そう言う声が、心なしか寂しそうに聞こえる。
神と人間の差という奴が、いろいろとこの人を悲しませたのだろう。
彼の妻は、王城でメイド長をやっているニナさん。普通のおばさんだと思うが、やはり神なのだろうか。
「……ニナと一緒に、しばらく様々な国を巡って、それで結局、戻ってきてみたわけです。
 血は本当にとても薄くなっていたので、ただ見守るだけでも結構平気ですから。
 誰も私たちが天の神と海の神であると気づきませんでしたよ。凄いでしょう」
やはりニナさんは天神か。
しかしまた、神のイメージからかけ離れている二人だよなあ、と思う。偽装と言うよりも、元々彼らはそうなのではないだろうか。
「しかしまあ、因果なものですね。ニナとの生活のために、縁談もほっぽり出して飛び出してきたのに、ニナと私の子孫のために戻る事になろうとは」
「それはどうも」
けっ、とサイハがすねた顔をする。
「サイハ様を責めてはいません。どうせ、責任をとる、というか、私の中で決着を付けるような事は、しておいた方がよかったのです。
 それに、海神の長は親友でしてね。ニナを取り合ったおかげで関係は壊れましたが。
 ですから、サイハ様とナイト様の中にある私の血を発見されると、ますます事態が悪化するのです。
 それは防がなければならないのですよ」
そして、決着を、か。
「……さらに言うと。
 神の連中は古いんです。自分の血脈を残すために、婚姻は近親で行おうとする。
 私の父と母は違いましたけどね、おそらく長がディーナと結婚させようとしているのは従兄弟ではない。
 長の弟たる、ヴァルディン。見かけがとても幼いので、従兄弟と偽る事は出来るはずです。
 近親相姦のおかげで気が少し狂っていますしね」
「「………!」」
ラディスとサイハが息をのむ。同時に、皆の歩みが早くなる。
俺はなぜか、吃驚しなかった。
おかしくない、と思ったからだ。
「……兄との縁談の次は叔父との縁談か。狂ってるな」
胸ににじむのは、どす黒い怒り。長の呆れるほどの愚かさへの憤り。
(この身をかけて忠告したのに。もはや情けをかける余地はない)
……今、俺は何を思ったのだろうか。分からない。
「………ナイト」
サイハが走りつつ、横から猜疑の目で見つめてきた。
「ん?」
「ディーナは、父親が兄と結婚させようとした事は、ナイトには黙っていると言っていた。兄のように思っているから、と。
 おまえ、どうしてそれを知っている?」
「………」
そう言われれば。どうしてだ?
胸の内に問いかけても、答えは返ってこない。
ただ、霞のかかったような何かが、俺の胸の中に存在している。
胸で蒼い石が光る。それでも落ち着かない頭。この懐かしさは何だ。
「サイハ様。じき分かりますよ」
ゲートアルファが、訳知り顔でそう告げた。

あちらにある門が見える。
その中に、俺達は飛び込む。
一気に視界が開け、そこが奇妙な部屋となっているのが分かる。
そして、そこにいたのは、

「ディルフォトス」

その名が分かったのは何故か。
心の片隅に確かに存在するその理由が、俺にはなんとなく分かった。

霞が晴れてゆく。
見えるのは、何だ。

見えるのは、―――夜。

 *

「……どうしてナイトが倒れるんだよ」
サイハは怒りと共にその疑問を口にした。
サイハの騎士、ラディスが、ナイトの様子に目をやった後、気遣うように隣に立つ。
「意識の底からお呼びがかかりでもしたのでしょう。
 彼はとても特殊な存在ですから」
ナイトは特殊な存在。不思議と驚きはなかった。それよりも、やはり、という思いが頭の中を駆け巡る。
ディーナの婚姻トラブルを知っていた上に、サイハたちを今いる場所――その『領域』に招き入れた神の名を知っていた。
これまでナイトと、従兄弟として過ごした日々の中でも、多少の違和感があった。
だから、もしかすると、母親が人魚であるとか、そんな事ではなく、サイハの思いもよらないモノに関わっている事もあるかもしれない。
初めはそう思って、『海神の娘』に興味を持って、ナイトたちの別荘を訪ねたのだ。
そしてディーナを好きになった。両思いになって、とても嬉しかった。
それに気をとられていて、ナイトに注意を払っていなかったのだ。
「……特殊な存在って?」
「ノクトナハトの話は聞いているか、人の王子」
ディルフォトスというらしい神が、ゲートアルファが答える前に質問してきた。
「聞いてるよ。ディーナの兄貴だろ」
「そうだ。そして、夜を司る神でもある。
 その『ノクトナハト』が『ナイト』だ」
ディルフォトスが視線でナイトの方を示す。
一瞬、何を言っているのか分からなかった。
いや、分かりはしたけれど、分かりたくなかったのかもしれない。
ノクトナハトがナイト――夜を司る、神。それなら、幼い頃からのサイハの経験も説明がつく。サイハの王子という身分故か、いきなり自分たちを襲った危険が、何故かいつも気がつくと、解決していたり、建物や人が焼けてしまったり。
サイハ単独の時はそうはいかなかった。必ずナイトが傍にいた。
それ故に、本人は気づいていないようだが、ナイトが気味悪がられる事もあったのだ。
それでも、ナイトは普通の人と同じように笑い、怒り、泣く。
だから、サイハはナイトが好きだった。とても良い従兄弟だった。
なのに、どうしてそのナイトが神なのか。
「ちょっと待てよ。神様ってのは、人じゃないんだろ。ナイトは人だろ」
「人といえば人、神といえば神。
 ノクトナハトは古の時代、とある国の王族を助ける代わりに、その血脈を継ぐ者のうち一人の体を得る権利を得た。
 その後、ディーナとの婚姻を父親に持ちかけられた。
 ノクトナハトは別に好きな奴もいたから、それを拒んだ。それに、近親相姦なぞとんでもないしな。
 拒んで、『三界の命』の命を使ってディーナを助けた後、父親への警告と抵抗をこめて自殺した。
 そうでなければあの王の事だ、薬でも使ってカタをつけちまっただろうから。
 ノクトナハトはおそらく海に近しい人魚の子が生まれると知り、それに生まれる事を計画したんだろう」
「おそらく、って……」
「俺だって今こいつを見て気づいたんだ。
 全部黙ってあいつは死にやがった」
ディルフォトスが頭をかきむしる。
「もしや、とは思ってたよ。ロードローザが帰ってきた後、髪から発火して焼け死んだんだ。神すら燃やす『夜の炎』でな。
『夜の炎』は夜を司るノクトナハトしか使えない技だから、もしかすると再びノクトナハトが現れ、そしてロードローザを殺したのではないか、ってな」
髪。サイハの指先に、かすった髪の感触がよみがえる。
あの時、ナイトは髪に触れる代わりに、その恐ろしい炎でロードローザを殺したのだろうか。
「とにかく、今こいつは神と人の中間みたいな、不安定かつ不安定な存在なんだ。
 だから、この神の世界に来て、何らかの変化を起こしたんだろう。
 お前は人間で、中途半端な存在ではない上に、血にある程度の力が含まれているから、神の世界にいても大丈夫なんだ」
「ある程度の力って、ゲートアルファの力だろ。それだって神の力で、俺は不安定じゃないのか」
「血と魂は違う。お前は魂が人。あいつの魂は人でもあり、神でもある」
よく分からないが、サイハは頷いておく事にする。
「とにかく……ナイトが神だろうと、そうでなかろうと、関係ない。
 大丈夫なのか? 死なないよな」
「死なないよ。それより、良いのか。ディーネの儀式、始まっちまうかもよ」
「儀式?」
「結婚の」
「……っ!!」
サイハは思わず立ち上がる。
「もうゆっくりする時間もないしな。
 道順を覚えろ。手引きは俺が準備してある」
「ナ、ナイトは」
「そのうち目覚めるさ。どうなってるかは予測できないが」
サイハはナイトに目をやる。
ナイトはうなされるでもなく、ただただ眠り続けていた。

 *

暗闇から上昇する。
目が覚めると、そこに見慣れた親友。
「よう、ディルフォトス」
「……お前……どっちだ」
「どっち? 『ナイト』か『ノクトナハト』って事か?
 強いて言うなら俺は『ナイト』だ。
 どっちでもあるけど、な。
 さあ、急ごうか」
地に足を着き、立ち上がる。
しっかりとした安定感。未だ『人間』でも『神』でもないが、この世界に強引に馴染む事は出来たようだ。
それで安心している暇はない。急がなければ。
「ああ。
 ……けれど、お前に一つ聞いておきたい事がある」
ディルフォトスが厳しい口調で聞いてきた。
「なんだよ」
「どうして、ロードローザを焼き殺した。ロードサイアが怒り狂う事ぐらい、目に見えていただろう? 余計な敵を増やす事は、お前の本意ではないはずだ」
「……え?」
何を言っているのだろうか。
俺はロードローザを焼き殺してなんていない。
「え、って……。だって、確かにお前の夜の炎でロードローザは焼け死んだぞ」
「そうなのか?
 俺はナイトとして生まれてこの方、死にかけた時とか、本当の緊急時だけしか『夜の炎』を使ってないけど。
 特にあの時はあんまりにも急だったし、意識もはっきりしてて、その上ロードローザには触れすらしなかったから、そんな事はしていない」
「そんな馬鹿な。どんな処置も無駄だったんだ。あれは確かに『夜の炎』だ」
「……え……?」
寝耳に水とはまさにこんな事だろうか。
そんなはずはない。
だってあの時、ロードローザに触ったのは。
「なあ。
 もしかして、ロードローザの炎が出たのは、髪からじゃなかったか……?」
「ああ、そうだよ。知ってるって事はやっぱりお前がやったんだろ?」
「……いいや」
俺じゃあない。そして、あの時ロードローザの髪に、触れたのは……。
「やったのは、サイハだ……」
体中から一気に汗。
心臓が半端ない早さで脈打ちだす。
やばい。かなりやばい。
いつの間に俺の『夜の炎』がサイハに備わったのか。
アレは人間の手に負えるものではない。なにせ神すら焼き尽くす最強の炎だ。死ぬ前のノクトナハトでなければ使いこなせなかった。
……やっぱ自殺しなけりゃ良かった。こんな変な事態になるなんて。
と、思った所で、ノクトナハトの自殺の理由を思い出す。
「………」
目を細め、首からかけた青い石を握りしめる。
サイハを捜す。ディーナを救い出す。
そして、海神の長を、前の父を始末する。
親にかける情はもうない。
俺の親父はルイト=ツウォイルで、母親はナナキ=ツウォイルだから。
「ディルフォトス、行くぞ」
「行くって……おい」
「案内してくれ。二人の居場所へ」
半ば睨みつけるようにして頼むと、ディルフォトスは戸惑った顔をしながらも頷いてくれた。

 *

「こちらです」
ディルフォトスの従者らしい男に案内されて入った、奇妙な感じのする『道』の先に、一つの部屋が見えた。
だが警備の者らしい体格のいい兵士が扉の前に立っている。
「……どうしよう」
「大丈夫ですよ。よくある話です」
顔をしかめたサイハに、にこり、とゲートアルファが横から笑いかけてきた。
「まあ、早い話――」
ゲートアルファ『道』の床に手をつくと、ドアがあった。
「よく言われる事でしょう。入り口がなけりゃあ作れば良いんです」
「いつの間に」
ラディスが驚きに目を見張る。
「驚いている間はありませんよ。さあ、行きましょう」
ドアが音を立てて開く。
その先の、壁も天井も白い部屋に、美しい衣装を着せられ、呆然と椅子に座っている彼女の姿が見えた。

「ウェイルディーナ!」

思わず叫ぶと、彼女の顔がはっとこちらへ向く。
「サイハ」
彼女の泣きはらした顔に、笑顔が浮かんだ。

 *

「ちょっ……ちょっと待てよ!
 確かにサイハは神に連なる血脈だけど、それがどうしてお前の能力を持ってるんだよ!」
領域の間を走り、三人を追いかけながらディルフォトスが俺に叫ぶ。
「媚薬だよ! 俺が死ぬ前、親父に盛られた、ウェイルディーナに惚れる媚薬!
 俺の精神に食い込むような、強烈なやつ! おそらく、あれがサイハの魂に混ざってる!」
「は!?」
「アイツと俺は同い年なんだ。俺は生まれ変わる前に、あの媚薬を自分の魂と精神から分離したんだ。
 それが『ナイト』の血脈を通じてか何かで、サイハの方に行っちまったんだ!」
「何だと!?」
「媚薬といっても、俺の精神の一部みたいなもんだ。その媚薬が『夜の炎』の能力の一部を持って行っちまったんだと思う」
「だとすれば……やばいじゃないか!」
「だからこうやって走ってるんだろー!」
説明しながら走る間にも、俺達に気付いた神々が領域から出てきて進路を塞ごうとする。
「邪魔だ―――『夜の道』!」
俺達が走る道の両脇に『夜の炎』を発生させ、神々や衛兵が入って来れないようにする。
「サイハが暴走する前に、媚薬を回収して滅する。そうでなけりゃあ、どこまで何が燃えるか見当がつかない!」
「うわぁ…なんて厄介な……」
目指すは婚姻の準備が行われているであろう、大広間近くの空き部屋。
(無事でいてくれ……サイハ。ディーナ……)
もしサイハが見つかって襲われたとすれば、御される事のない『夜の炎』がこの海の底の世界を覆い尽くす。
止められるのは自分しかいないが、その場合、サイハの体と魂にどんな影響が出るか分からない。
サイハは従兄弟だ。俺の大切な従兄弟。
危険な目にあわせるわけにはいかない。もちろん、ディーナも。
「―――ゲートアルファ! 門を出せ!」
視界に入った首根っこを捕まえ、引きずって目的の部屋に走りながら叫ぶ。
「どうしたんです、ノクトナハト」
「ナイトだ。サイハをあの部屋にやったろう! その門を出せ!」
「無理ですね。あそこは特殊な結界が張ってありましたから、一度出すので精一杯ですよ。
 あ、でもまだ繋がってますから、そこの『道』に…」
「ええい、しゃらくさい!」
話の間に見えてきた部屋の見張りと、ついでに扉を炎で吹き飛ばす。
中の二人は再会の喜びに抱きしめあっていたが、そんなことは気にせず声をかけた。
「サイハ!」
「ナイト!? うわお前、髪の毛と瞳がまっ黒じゃねえか」
「そりゃあまあ、『夜の神』だし」
「えー。俺お前の容姿結構好きだったのに」
「あーはいはい。文句は後で聞くから。
 ディーナ、逃げるぞ」
「に、兄様…?」
「何」
「兄様だ……」
ぽろぽろとディーナの目から涙が零れ落ちる。
ぽんぽん、と頭を軽く叩いてやると、さらにその量が多くなった。
「……泣き止め。逃げるぞ」
「はい……!」
ぐすっ、とすすりあげてディーナが頷く。
「うわぁぁ…」
「あー、サイハ、分かってる分かってる。大丈夫、ディーナの彼氏はお前だ」
「……うん?」
「なんだ、その変な答えは」
「やー…なんか、変な感じ」
「変な感じって……」
そこで俺は、重要な『あること』に気が付いた。
やばい。『これ』は、やばい。
『神々の領域』は俺以外にも影響があったのかと内心舌打ちしながら、急いで胸に紐を通してかけていた、あの青い石を外し、呪文を唱えて石に術をかけ、サイハに渡す。
「……『承諾する』って言って首にかけろ、サイハ。これは俺の加護を受ける印だから」
「へっ?」
「早く!」
「しょ、『承諾する』…?」
サイハが紐を首に回して首飾りをつける。
これで一応の予防は済んだ。
だが、『これ』の他に、媚薬の事も残っている。どうにかしなければ。
「とりあえずディルフォトスの領域まで戻るぞ」
「分かった」
サイハ達が素直にうなずく。
しかし駆け出そうとした俺の足は、目の前に現れた兵士たちによって止まる。
その兵士たちを割るようにして歩いてきたのは、海の色の髪に瞳。俺が知っているのよりはずいぶん年老いた、そして狂った相貌の男。
「……ヴァムヴァルド」
「父を呼び捨てにするとは、無礼になったものだな、ノクトナハト」
「お前は父じゃない。俺の父親は陸にいる」
「ふん」
海神の王ヴァムヴァルドは傲然と笑い、一歩こちらへ踏み出してくる。
「久しぶりだな、ゲートアルファ」
「久しぶりだねヴァムヴァルド。
 そこをどいてくれないか」
「駄目だな」
ふ、とヴァムヴァルドは笑う。
次の瞬間俺の体を衝撃が襲い、そのまま俺は『領域』の壁に縫いつけられる。
体が動かない。しまった。術をかけられた。
俺の炎は何でも燃やすし、俺の力は強い。けれど、それでも『海神の王』の力を打ち破るのには時間がかかる。
「『夜の炎』を出されては厄介だからな」
「ナイト!」
サイハが俺に駆け寄ろうとするが、兵士たちに阻まれ、それは叶わない。
そして俺は、未だ術を解くことができておらず、動けない。
「離せよ! 離せ!」
「牢に入れておけ」
『領域』に縫いつけられた俺の周りに『壁』が生成され、辺りの景色が歪む。
脇腹に鈍い痛みを感じてそこに顔を向けると、そこから氷の結晶が杭のように突き出て俺の腹を、……まあなんかこう痛い感じにしていた。
これでは回復にも時間がかかる。
徹底的に時間稼ぎに回った手に、嫌悪感と怒りで心中がいっぱいになる。
「ちょっと待てよ、ナイトを離せ!」
サイハが暴れているらしい音がする。
熱っ、と兵士たちの声。
「待て。待て、……サイハ」
それを発動するな。それはお前の手には負えないものなんだ。
ましてやお前はその上、と一応叫んでみるが、聞こえていないようにサイハの喚く声がする。
「この野郎、ナイトに血まで流させやがって―――」

お前達なんか、燃えてしまえ。

とうとう言ってはいけない言葉が、海の底に放たれた。
だめだ、という、俺の声を無視して。