誰かが呼んでいる。
誰だ?
一体、誰だ。
――ああ。
ああ、お前か。
許し?
ああ、いい。
許す。
さあ、やれ。
我らがウォルア、その民を傷つけるものを、懲らしめてやるがいい。
まあ少し哀れではある。
――だがな、俺は、こういう奴らが、大嫌いなんだ。
もう少しで湖の脇の台が見える、というところまで来て、オーリスがぴたりと歩みを止めた。
「なんだ?」
「……どうしたの」
「いや…湖が…なんだ?」
長年湖の傍で暮らした一族の長ならではの勘なのか、オーリスはきょろきょろとあたりを見回し、不安げにしている。
ここの一族の老化を誤魔化す術を詳しく知っているわけではないが、おそらくそれが関係しているのだろう、とウリエルは見当をつける。
「異物……『力』のある異物だ…」
ああ、つまりレコンもしくはヨルムンガルドね、と見当をつけ、ウリエルは新たに精霊を呼び出す。
探れ、と目で伝え、呼び出された水の精霊が頷いた、その時だった。
水音を伴った足音が耳を打つ。こちらに走ってきている。人気の無い通りの方から、真っ直ぐに。
……誰が?
その感じ覚えのある気配にウリエルが驚いている間に足音は近付いてくる。
そしてその足音の大きさが頂点に達すると同時に、目の前を歩いていたオーリスの体が吹っ飛んだ。
民家の壁にぶつかったオーリスは、がは、とも、げほ、とも聞こえる声を出し、地面に落ちて倒れ込む。
殴り飛ばされたのだ、とウリエルは一瞬後に理解し、身構える。
「……責任者は、お前で間違いないんだな?」
オーリスを殴ったその逞しい拳を軽く振り、不敵な笑みを浮かべてその男がオーリスの方へと歩く。
まさか、『出て』きて、しまったのか。
思わず身構えるウリエルの方をちらりと向き、琥珀の瞳が愉快そうに細められる。夜風に靡くのは亜麻色の髪。鍛え上げられた肉体。しかし、ウリエルの知るあの騎士とは違う、揺らめく視線。
「……一応、聞くけど。
レコン=ブラック?」
「さあね」
「……やっぱりか」
「………」
何も答えず、レコンといつも名乗っている青年は、『いつもの自分』の『立場』を分かっていないゆえの呆れ顔でなく、どこか尊大な態度で濡れた髪をかきあげる。
「……喧嘩をしかけてきたのはここの連中だ。責めるなよ」
オーリスの方見て鼻を鳴らし、青年は彼の方へ一歩踏み出す。
「ウ…『ウォルアの王』?」
オーリスといえばぶつかった腰をさすりつつ、目を丸くしている。
「――おい、空の湖の主よ。お前は若いようだが…他の者たちは年を経すぎたようだな。
あんまり憐れだったから、これだけで済ませてやるが……今後ウォルアの者に害を加えたら、今度は俺の全てがお前の親代わりの者たちを圧倒するだろう」
す、とルキアスが前にかざした掌に、光が集まる。暖かくてそれでいて強く、犯しがたい何かを持った光。
あぁあああ、という声が四方から聞こえてきた。目をやると、その先で中年男性のように見える、空の湖の民族が頭を抱えて苦しみだすところだった。その体からルキアスの掌に集まるものと同等の光が漏れ、そしてルキアスの方へと飛んでゆく。四方からも、光がルキアスの掌へと集まる。
同時にその人物の顔は老い、しわくちゃになってゆく。
生命エネルギー、特に、成長・老化に関する類のエネルギーが奪われていっているのだ。
オーリスはただそれを、絶望とも驚きともとれる表情で、呆然と見つめていた。
「ウォルアの者から奪った生命力の残り、奪い返させてもらう。
これからは、その老いに従って生きろ。それこそが、血に拘って衰退した民族の定めだ」
やがて光の収束が止まり――弾けた。弾けた光は一群となって湖の方へと向かってゆく。
湖の方の空を見上げ、それを見届けた後、『レコン』は首をこきりと鳴らし、
「……じゃあな。多少は違うだろうが、大体はこれでお前の目的通りだろう?」
「……まあね」
ふ、といつものレコンらしくない暗い笑みを浮かべ、青年は近くの壁に寄り掛かる。
そして目を閉じる寸前、
「――後始末を、よろしく」
と言い残し、その場へ壁に沿ってくずおれた。
近寄って顔を覗き込むが、もう意識はないようだ。じきまた目を覚まし、何故か自分がここにいる事について首を傾げる事になるはずだ。
だがしかし、ウリエルはなんだか嫌な予感がしていた。後始末って何だ、後始末って。
そしてレコンがわずかに瞼を震わせた、次の瞬間。
湖の方から、効果音で言うならきしゃああああ、といった感じの、豪快な蛇の泣き声が聞こえてきた。それと同時に、先程偵察にやった水の精霊がとんで戻ってきて報告する。
「ヨルムンガルドを確認。本性を顕し、ウォルアの人々を湖から出した後も威嚇を繰り返しています」
これか畜生この野郎。ウリエルは思わず舌打ちし、
「オーリス、お前は走ってこい。仮にもこの湖の主ならば」
翼を広げ、湖の方へと飛び立つ。
空の上でもなお吹く夜風が、頬に冷たかった。