9 |
ぱたぱたとすでに干されている洗濯物がはためく。
その下に置いてあるカゴには、ラエの衣類がまだ濡れた状態で入っている。
カゴの縁には、
――─泊めていただいたお礼です。紫雲
P.S ラエさんの分は干すのを遠慮させていただきました。
というメモが張られていた。
「うん、しうりんいい子」
いきなり背後からウリエルの声がして、ラエの体中が泡立つ。
(いつの間に後ろに? いつも突然現れることはよくあったけど)
「ラエもだけど」
ぽんぽん、と軽く触れられる頭。
温かい手の平のぬくもりが直に伝わってきて、ラエは何故か体中がくすぐったくなる。
ラエはこの手が好きだ。
最初にいい子と髪をなでられた時から別に嫌ではなかったし、むしろ嬉しい。
−−−その手を置かれたひとは、かれに守られ、祝福を受けるのです。
そんな『大天使ウリエル』の伝承を昔、幾度も読み聞かされたからかもしれない。
しかし伝説の大天使ウリエルとはずいぶん違う。
彼は聡明にして強壮、寛大にして時に厳しかったという。
「ねえ、ウリエルって縁起のいい名前だね」
いきなりそんな事を言い出すラエにウリエルは
「?」
と首をかしげる。
「いや、大天使ウリエルと同じ名前だから。それにあやかったんでしょ?」
そう言ってにこにこするラエの顔を、ウリエルは沈黙したままじっと見つめ、
「……あやかったんじゃないから」
目を逸らして、ぼそりと拗ねたような、複雑そうな感じのこもった声を出す。
「そうなの?」
それには答えず、ウリエルは空を見上げる。
そして不思議なことが起きた。
まず、風がウリエルの周りに収束していく。ラエが肌で感じられる程に、優しく涼やかな風が。
それから渦を巻き、だんだん湿っていき、そして乾き、湿る。
そして最後に少しだけ水滴がウリエルとラエの頬、そして髪についた。
「……くる」
そう呟くとウリエルはさっときびすを返し、すたすたと物干し竿の方へ行く。
「え、ウリエ」
ル、と言う前にはっしとウリエルが物干し竿の生乾きの洗濯物をつかむ。
そして何事かを呟くと、ラエの周りを取り囲んでいた風が一気に乾き、そのまま洗濯物の方へと更に収束して向かっていく。
物干し竿もカゴの中も、洗濯物の全てが風に乗って飛び上がり、螺旋状に舞った。
あたりに湿気を撒き散らしているらしく、夜明けでもないのに草に露が光る。小さな竜巻が生まれたかのようだった。
わずか数十秒のことだった。
そのまま上手い具合にカゴに全部の洗濯物が収まる。
呆気にとられていたラエはその刹那、我に返ってカゴに駆け寄って洗濯物を勢いよくひっつかんだ。
乾いている。完全に水気も飛んで、さっぱりして、それでいて手触りもよかった。くしゃくしゃになってもいない。
「……じゃ、家に入ろ」
さっさとそれを抱え上げてウリエル。
「ほんとはこれ、嫌いなんだけど。お日様の匂いがしないし、疲れる」
へ、とラエは空に照っている天陽を見上げた。
なんの変哲もない晴天。
そんなラエを尻目にさっさとウリエルは花畑の向こうの勝手口まで洗濯物を運んでゆく。
「あ、ウリエルちょっと待って」
どうかしたのだろうか。
ラエはその後を急いで追うが、すたすたとウリエルは花畑を特に香りを楽しむ様子もなく通り過ぎてゆく。
ウリエルは勝手口を開けて家にはいる。
彼がカゴをおいた丁度その時に、やっとラエは追いついてウリエルの気の抜けたラフな服(寝間着以外の時はたいていそう)をつかむことが出来た。
「ねえ、どうし」
背後が光った。視界が真っ白になり、そして色を取り戻す。
その一瞬後に響く轟音。
雷だった。晴れていたはずだったのに。
そのまま1つ、2つ、3つと水滴が落ちる音がし、ラエが振り向くと、バケツをひっくり返したような雨が堰を切ったように地面に叩きつけられていた。
またもや呆気にとられて、
「う、ウリエル、これって・・・」
とあわてて振り返ると
「きた」
と一言。
「え、え・・・」
さっきのくる、という一言に、取り込まれた洗濯物。
つまりウリエルは、この雨から洗濯物を救ってくれたのだ。
そうわかって、ラエは言った。
「あ、ありがとう」
どんな方法で予測したかは、さっきのと関係があるのだろう。多分水滴が付くか付かないかが基準だったのだ。兎に角、何にせよお礼は言っておくべきだと思った。
「………」
ブッ、とウリエルが吹き出した。
今までのぼうっとした表情をあっという間に崩し、外見の年頃よりは若い笑みを浮かべていた。いたずら少年の無邪気な笑み。
それはしかし同時に、とてつもなく、そう、まさに天使の笑顔のように美しかった。
「あ、あ、え・・・」
戸惑うラエの頭をまたぽんぽんと叩き、ウリエルは顔を綻ばせたまま、
「山の天気は変化しやすい。特に、これから。一応出来るだけ洗濯物は取り込みに行くけど、気をつけて」
今までで一番饒舌な言葉を言う。
そのままウリエルは機嫌良く廊下の奥に歩いていって、自分の寝室に消えた。
雨が降り込んでいるのにも気付かずに、なんだかラエは力が抜けてしまって床にへたり込む。
心臓がばくばく音を立てていて、それが少し冷えたようなラエの体の中で特に熱く感じる。
ウリエルは多分、ラエが山の天候はまだ分かっていないとふんで、洗濯物を取り込んだ。
雨が降り出して、ラエは戸惑って何も言えないと思っていたのに、感謝の言葉を言ったから意外で吹き出した、ということなのか。
あの、綻んだ顔を思い出す。
貴方はウリエルさんのお気に入りです、と紫雲は言っていた。
考えてないようで考えてて、自分たちが思うより普通なんだとも。
その通りかもしれないと思った。
少々綺麗すぎたが、というよりときめかずにはいられなかったが、少なくとも、あれは多分普通の人の笑顔だった。
微かに花の香りがする。またどこかで雷が鳴ってるようだけど、ラエにはあまり大きく聞こえなかった。